ヒシャーム (ウマイヤ朝)
ヒシャーム هشام بن عبد الملك | |
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ウマイヤ朝カリフ | |
ヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの貨幣 | |
在位 | 724年 - 743年 |
出生 | 691年 |
死去 | 743年2月6日 |
子女 | ムアーウィヤ |
家名 | ウマイヤ家 |
王朝 | ウマイヤ朝 |
父親 | アブドゥルマリク |
宗教 | イスラム教スンナ派 |
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ヒシャーム(691年 - 743年2月6日)は、ウマイヤ朝の第10代カリフ(在位:724年 - 743年)。
生涯
父は第5代カリフのアブドゥルマリクである。724年に即位する。
彼の時代はまず外圧に苦しめられた。ホラーサーンとその東北部では西突厥から自立した突騎施(テュルギシュ)の攻撃を受け、イラン系先住民のマワーリーと土着化したアラブの合体による反政府運動、権力をめぐる南北アラブの対立・抗争などである。またハワーリージュ派に扇動されて蜂起したベルベル人の反乱を740年から742年の2年にかけてようやく鎮定した。
内政ではイラク総督のハーリド・アルカスリーの支援を得て干拓・灌漑による農地の拡大で財政を再建した。またヒシャームはアブドゥルマリクを除けば歴代カリフの中でも19年という長期の在位を保ち、没落傾向にあったウマイヤ朝に最後の安定期をもたらした。だが腹心のハーリドはのちにマワーリーの税制問題から失脚。740年にはザイド・ブン・アリー[1]がクーファのシーア派に擁立されて反乱(ザイド・ブン・アリーの乱)を起こすなど、すでにウマイヤ朝は末期的状況に置かれていた。なお、この反乱自体は簡単に鎮圧し[2]、ザイドを処刑している。
743年に54歳で死去した。跡を甥のワリード2世が継いだ。
なお、孫であるアブド・アッラフマーン1世はアッバース革命の際にウマイヤ家の一族が皆殺しに遭った際、イベリア半島に逃れて後ウマイヤ朝を建て、初代アミールとなった。
脚注
- ^ 正統カリフだったアリー・イブン・アビー・ターリブの次男・フサインの孫
- ^ 反乱計画が事前に総督に漏れていたという[要出典]
参考文献
- アミール・アリ『回教史 A Short History of the Saracens』(1942年、善隣社)
関連項目
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ウマイヤ朝カリフ | |
後ウマイヤ朝アミール | アブド・アッラフマーン1世756-788 / ヒシャーム1世788-796 / ハカム1世796-822 / アブド・アッラフマーン2世822-852 / ムハンマド1世852-886 / ムンジル886-888 / アブド・アッラー888-912 / アブド・アッラフマーン3世912-929 |
後ウマイヤ朝カリフ | アブド・アッラフマーン3世929-961 / ハカム2世961-976 / ヒシャーム2世976-1009 / ムハンマド2世1009 / スライマーン1009-1010 / ムハンマド2世(復位)1010 / ヒシャーム2世(復位)1010-1013 / スライマーン(復位)1013-1016 / アブド・アッラフマーン4世1018 / アブド・アッラフマーン5世1023-1024 / ムハンマド3世1024-1025 / ヒシャーム3世1027-1031 |